こういうのを大変意識して作っておられるのでしょうか?
>>715
管弦楽法って言って、各楽器の基本的な部分での得意な音の動きが体系化されてる。
だけど、それに則って編曲しても当り障りのないサウンドが出来上がるだけ。
リストがピアノの奏法の限界に挑戦したように、作曲家自身が優れた演奏家だった場合や、
友人に優れた演奏家を持つ場合には、それを無視して書く事は多々あるよ。
もちろん、音域の問題は絶対的だけどね。
従って、オーケストラによっては技術的な意味で、演奏出来ない曲と出来る曲が出てきてしまう。
演奏出来るとは言っても、例えばN響などでドビュッシーの海を聴いてると、ここのトランペットは
外しそうだなー、ああやっぱ外れたーみたいな部分がわりとあったりする。
ナニ、このスレの最近の流れでは旋律を理論化しようとしてるの?
無駄だから止めた方がいいよ。
和声や管弦楽法と違って、旋律学なんてもんはないんだよ。
要は、快感の元を、今まで誰もまともに理論化していないんだ。
出来たらノーベル賞もんだよ。
基本的に、西洋音楽の作曲の図式は、作曲家の才能(霊感・発想)と技術(労作)による。
バッハの複音楽が原典と呼ばれるのは、それが理由だね。
学者は、その技術の体系化には成功したが、旋律の美を作り出す霊感の部分に対して
着手するも大成した奴は一人もいないんだ。
ちなみに、リヒャルト・シュトラウスなんて、4オクターブに渡る旋律を作ったりしてな。
こいつは凄いんだ。この圧倒感は、ポピュラーではまず感じることが出来ないだろう。
いや、別に理論化しようとはしてないんじゃないかな。
歌メロがなんで器楽的メロと(・∀・)イイ!!ポイントが違うんだろうかって
ことについて、語ってるだけだよ。
仮にもプロフェッサーの名前を付けてる者が、簡単に白旗上げんなよ。
登場初期の頃の強気はどうした?
メシアンだったら「世の終わりのための四重奏曲」を聞け!
オレなんか、タイトルに惹かれて買ってしまったぞ。
タッシっていうグループの演奏がお勧めだ。
トゥリャンガリア交響曲のあほらしさとか。
少し疎いんだと思う。
ま、万能の人なんかいないんだから、いいんじゃない?
フルート1本で、バイオリン10本分の音量とか、そういうのはほぼみんな守るよね。
破っても、バランスの悪い音が出来上がるだけだから意味が無い。
やっぱ作曲家の創意や興味は、楽器の組み合わせかな。
倍音構造を研究したりして、3つの楽器に各音を分担させ、ある楽器を再現するとか、
まあ、そういうのが色々あって、西洋音楽史的には、19世紀終わり~20世紀前半に
かけて機能和声と同じで管弦楽法は飽和に達したんだよね。
で、その流れが、シンセサイザーに行くわけよ。
西洋以外の楽器を用いる作曲家もいたけど、当時の進歩思想からすれば、西洋文明の
正統な流れの結果(機械工学→電子工学)のシンセサイザーに興味を示す作曲家が
多かったのは当然でね。面白いでしょ。歴史は決して分断されないんだよね。
メシアンも音頭丸殿使ってるしね
音頭丸殿…
ぐにょ~んっていう音しか聴いたこと無いなぁ。
あれって音程演奏できるの?
キーボードがちゃんと付いてるよ。
ちなみに、我が日本も当時の世界の状況とちゃんとリンクしてるんだ。
津軽三味線に電子増幅器(←アンプだね)を付ける試みなんてのが、1900年頃に
やられてるんだよ。面白いだろー。
へぇ、鍵盤ついてたんだ。
音頭丸殿って、あの変な輪っかしかないのかなって思ってたよ。
手流民が一歩シンセに近づいたって感じなのかな。
我が日本の黛敏郎も、カンパノロジーってな、まあ寺で使うような鐘の音を楽器で再現
したりしてたぞ。
そこに大人数の読経が入り、音が入り乱れ、最終楽章では、聴衆は涅槃に到達する。
涅槃交響曲ってな。
まあ、一度聴いてみると良い。