現れてはぐちゃぐちゃになるね。同じ「ドリアン」でもドリアンモードと
ドリアンコードスケールは違う概念だって何度も出てるのに。
エオリアンコードスケールとナチュラルマイナースケールも違う概念。
このへんが頭の中で整理できてないと一生わかりませんよ。
じゃあ、ここで正確な定義をして下さるとうれしいのですが。
(1)モード
(2)コードスケール
ついでに
(3)ナチュラルマイナースケールはどちらですか、それともどちらでも無いのですか。
まあまあ
相手は、こちらが鶏の解剖学上の話をしている時に
ルースターとチキンを混同するなと言って来ているのですから・・
>>907
>同じ「ドリアン」でもドリアンモードと
>ドリアンコードスケールは違う概念だって何度も出てるのに。
その「ドリアン」はどういう概念なの?
みなさんもう一回来て下さい。話はそれから。
が俺の知識では理解できないので、879氏の仮説が正しいかどうかは
わからん。立ち読みでいいから読んでからもう一度説明してくれ。
G7でどちらのスケールも使えるのがわかりませんか?
「楽典の話」はもってるが、僕が振った話題は含まれていても、僕の主張とは無関係だな。
NmがHmを経て、Mmに「変化した」という物言いを見たまま受け取るのは変だと主張したのよ。
実際の音楽の中に音階が存在するわけではないのだから、
音階が変化したのは、理論家の頭の中あるいは理論書の記述の上でのことでしょ。
理論家は音階を音楽のモデルと見なし、音楽の変遷を音階の変化で説明している。
それは「分かりやすい整理」に過ぎないのであって、
科学における仮説とは別種のもので、検証を考えること自体が無意味なのだよ。
僕がドリアン仮説を出したのは別の文脈からなのであって、これを主張してるわけではない。
上の主張の意味が分からず、Nm(エオリア)仮説を信奉するならば、
ドリアン仮説を否定してみよ、という意図が僕にはあった。
Nm仮説は、ドリアン仮説やフリギア仮説と較べて、論理的に優位な点をもたない。
なぜなら、どの仮説も同様に、
ある音階が別の音階に「変化した」と「分かりやすく整理」しているだけだからだ。
だからひとつを肯定し、他を否定できるはずがないのだ。
しか違わないわい。くだらん。
話にならんだろ。
>>921
あなたの定義を読んだ後で、その違いというのが議論とどう関わってくるか説明するから、
とりあえず定義を書いて下さいな。
>>922
歴史的アプローチで考えても、これら3つの説が可能ですよ。
>>936
僕はアベイラブルノートスケールの概念と用語は知ってるけど、
コードスケールについては知らない。2chではよく目にするけどね。
アベイラブルノートスケールは比較的よく知られているから、
コードスケールなる語をわざわざ用いるのは、特別な意味合いがあるのだろうと思うわな。
でも>>929は同じだといったわけ。
僕はそれを真に受けたわけでないから、>>931では
「『仮に』・・・同じものだというなら」と書いたはずだ。
しかもそれは言い換えが話をややこしくする元凶だと戒めるためにね。
>>934-935を見ればその通りでしょ。
話題はコードスケールとモードの違いなんだからね。
で本題だけど、・・・氏は僕のいってる「構造」を取り違えてる。
D-E-F-G-A-B-C-DはDdorian scaleである──この言明に異論を唱える人はいないよね。
なぜなら、そこには構造しかないから。
(中世の理論ではこれが音階ではなく旋法と呼ばれたからという理由で)
ドリアンスケールをドリアンモードと区別しなければならないと言い出すと、意味が生じる。
区別できない、あるいは区別しない方が都合がよいことがあるよね。
マイナースケールへの変化は旋法世界から調性世界への変化とリンクしてるのだから、
それについて議論する場合には、スケールとモードを区別するのは見当違いだよね。
そこへきて内容には切り込めないが一言いいたいやつが
2chの様式美に従って、>>921のような書き込みをするから面倒になる。
最後の二行特に禿堂。
別に分けて考える必要のないときもあるね。
あるということで手打ちにしたら?
少なくともプレーヤーにとってはどうでもよさそう。
主観で決めただけのもの。法律のようなもので理解より解釈。
理論と呼ぶほど理論的なものではない。客観性を著しく欠いたもの。
まさか代替案が無い訳じゃないだろうな?