同じようなスタイルの曲が作れちゃう作曲教育システム。
三部形式とかメロディの展開の仕方とか、決められたテーマの上で
いかに「器用に」曲を作るかというのは、どんな分野にも応用が利く。
その分現代音楽においては逆に発想の制限にもなりうる。
それがそうでもない。ピアノの前に集められて歌ったり「音当てゲーム」を
したりするうちに、絶対音感が自然に身につくようなシステムになっている。
教える立場の方は覗いたことがないから、詳しくはわからんけど。
20年以上経って、漏れの現役幼児の頃とはシステムも大分違うだろうしね。
根本的な問題をかなり孕んでいると思う。ヤマハだけの問題じゃないけれど、
ヤマハを考えることでその先にも問題提起なり何なりができるような気はする。
先生に「いいメロディだね~、こんなの作れるなんてすごい!」とほめられたが
「うん、これクレヨンしんちゃんの曲だよ!」と俺は真顔で答えた。どうも当時作曲の意味すらわかってなくて
クレヨンしんちゃんのBGMをパクってそのまま提出したらしい、あのファゴットの
ソーシレ♯ドーレー ファーミレドーレーの部分。やり直すわけにもいかずそのままの楽譜が今でも残ってて笑える。
でもほとんど先生が展開や伴奏まで作ってた気がする…あでも俺はグループの中で一番できない子だったから
やってた奴は自分でやってたかもな。
>>8
そういえば「こうやって作るといいのよー」とか言って先生から与えられた
伴奏などをもとにそれらを組み合わせて曲を作っていたような気もする。
確かにその方法だと「器用」にはなるんだけど・・・ね。
漏れが中学生以降になってヤマハが肌に合わないと感じたのもその辺が原因かな。
でもそれ以上におぞましいのは、それと同じように「最初のフレーズだけ与えるから
その後に続けて曲を作りなさい」というやり方で教えている作曲クラスが
日本でもフランスでもいまだに存在するということ。むしろそっちに文句を言いたい。
いくら学生とは言え芸術の何たるかを理解できるいい年頃の若者に対して、
それはないだろー!とは思うのだが。
根本的な問題をかなり孕んでいると思う。ヤマハだけの問題じゃないけれど、
ヤマハを考えることでその先にも問題提起なり何なりができるような気はする。
「さあみんな、ヤマハ音楽教室が始まるよー」という前ふりと共に、授業の一風景を映していた。
あれはモロに絶対音感教育の最も効率的な方法だと思う。
先生:「ドレミファソ」生徒たち:「ドレミファソ」先生:「ソーーラソ」生徒たち「ソーーラソ」と
リズムに乗っておうむ返しにドレミで歌うやり方。
あのコマーシャルの子供たちは16分音符の早いリズムを平気でこなしていたし、
体格から言っても恐らく8-9歳程度の上級生だろうが、
このソルフェージュシステムだとおうむ返しだからまず間違えようがないし、
様々な音形をドレミで歌う癖がつけば、絶対音感は自然と刷り込まれる。
漏れがちまたの歌などを聴いたとき、まず真っ先にドレミで頭に刷り込まれるのに
歌詞は10回以上繰り返し意識的に聞かないとなかなか覚えないのも、この辺が原因かも。
>>10 先生:「ソーーラソ」生徒たち「ソーーラソ」
私には「ソーーラソ」じゃなくて「ソーーラファ」に聴こえましたが
おまえ、ほんとに絶対音感あるのか?
と言いたかったのだが。
そのいい例として、ある日本の講習会に参加したときにヤマハ出身という講習生の方が複数名いらして、
確かに「ある型」の中では本当に達筆なエクリチュールで作曲できるのだが、
果たしてそれがその講習会で扱うようなジャンルとしての現代音楽の場において、
創造的な作曲行為といえるのかどうかというと疑問だ。
望月さんのような例は本当に希少だろうけど。
そういえばディラーラが言っていたが、リスト音楽院のソルフェージュでは
ヘルツ単位の正確な絶対音感が求められるんだってさ。
といってもやはりそれらの曲にある種のマニエールの匂いを感じてしまうことは確か。
うーん、やっぱりスレ違いの話題なのかな?
望月さんはヤマハ、原田さんは桐朋子供音楽教室の出身とはいえ
それぞれ独自のスタイルを確立しているが。
引用元 : http://awabi.2ch.sc/test/read.cgi/contemporary/1138314654/